戸惑いの惑星の偏った感想その2

2/19、福岡のキャナルシティ劇場で2回目の観劇をして来ました。
1回目からだいぶ経って、その間にやっぱりネタバレありでも無しでも感想はあまり見かけなかったんだけど、それはそもそも私が感想やレポを積極的に探していないからというのが大きい気がする。

実は大阪も観る予定なので、感想は最後まで観てから書くつもりでいたのだけど、初見で自分が何を覚えているのかを記録しておいたらやっぱり自分にとって大変面白かったので(読んでくださった方には何がなんやらだろうけど)、今回の分も書いておこうと思います。100%自分のため。

福岡2日目の感想というか覚えていること

真っ先に訂正しなくてはいけないことが!
前回の感想で「恋に落ちた彼女との1人キスシーンがエロい」と書きましたが、そんなシーンはございませんでした。なんと…!妄想で作り上げていたようです。自分のことが全くもって信じられない…。

最後のDahliaを3人で並んで吹くところ、ひろしだけ間違えて早く右を向いてしまって、イノまーが何だお前って顔してひろしを見て、ひろしが明らかにやっちまった顔してて、めちゃくちゃ可愛かった。もちろんカテコ挨拶で早速イノにからかわれてたw

楽屋が地下にあるグローブ座と違って、キャナルの楽屋は窓があるから、昼なのか夜なのか雨が降ってるか、外の様子が見えるのが嬉しいとイノが言っていて、健やかな感覚だなと思いました。

この作品の感想が書きづらいのは、いろんな切り取り方、いろんな解釈ができるからというのもあるのかもしれない。初見の時は「無意識・当たり前という感覚」に着目して観ていたけど、今回は「未来は予め決まっているのか」「どこからどこまでがお芝居なのか」という点が気になりました。

3人のうち誰に感情移入できるかというと、私は由利の「奇跡がないとは言い切れないんだから科学で証明することも可能なのではないか」という考え方はすごくわかるし、長谷川の「他人の人生を自分に取り込みすぎたが故に人格喪失症になってしまった」というのもわかる。でも、三池の感覚は自分の中には全くないから思い入れが低くなってしまう。でも、まーくんさんが言う「占いに戸惑う」というのはちょっとわかる。

長谷川は、手紙代筆を始める前から、他人の気持ちを想像しすぎるところがあったんじゃないだろうか。小説を持ち込んだ先の編集者に「これは小説とは言えない」と言われたのは、登場人物の人生をあまりにリアルに書きすぎていたからでは?もしかして持ち込んだ作品は、三池と由利が読んだ「迷いの病の世迷言」だったのかもしれない。途中から空白になっていたのは、登場人物に先の話を知らせないため…?どこからどこまでが小説の中の話なのかわからない。

2人が小説を読み始めると劇中劇みたいにシーンが変わるんだけど、その境目もよくわからない。劇中劇=小説では長谷川として登場しているところも、実際は長谷川ではなかったと後から2人は話している。これは、他の人の役を長谷川が演じて私たちに見せてくれたということなのかもしれない。他人の人生を生きるのは長谷川に限った話じゃなくて、役者さんはみんなそう。ちゃんと台本に沿って演技するんだけど、台詞を言うその瞬間は先の展開を知らないかのように役の感情で反応する、ということを無意識にするのが役者さんの仕事だけど、それに戸惑う、という話なのかもしれないなと感じた。パンフレットに書いてあったのは、あさイチのプレミアムトークのゲストは毎週金曜に来るから、ゲストを迎えるにあたってゲストのことを一週間考え続けるということで、もしかするとイノは「自分がどんなことを聞きたいか」だけでなく「自分がそのゲストであればどんなことが話したいか」も想像しているんじゃないかな。それは、ゲストの気持ちになれないとできない作業。

不惑でも戸惑う」がテーマだけど、登場人物はどうにも不惑に見えないんだよね。演じてる人たちは全員不惑のはずなのに。それって何でだろうと考えてるんだけど、高校時代の思い出がベースの話だからという面もあるのかも。今が高校生じゃないのは分かってるけど、高校生の時に好きだった人のことを40代になってもまだ好きでいられるとは思えないとか。あと、夢を諦めるのがアラフォーなのも遅い気がしてしまう。でも、実際はそんなものなのかもしれないねぇ。まーくんさん演じる三池が20代のマサっぽいところも、不惑に見えない理由の一つかもしれない。不惑まーくんさんはここまで戸惑ってないように見える。私がまーくんさんを知ったのはリーダーの苦悩から解放された10周年前後だけど、ビリスマあたりのインタビューはもっと苛立ちとか戸惑いが出てたよね、という話を昔を知るまー担さんと話していて、三池はビリスマあたりのマサっぽさがあるよな、と納得したのでした。
全然関係ないけど、高校の時に好きだった先輩に何十年ぶりに再会したらまーくんさんの姿だなんて、それだけでも超ラッキー。世の40代はこうはいかない。

これは福岡公演を観ての感想じゃないけど、どこかのインタビューを読んで思ったこと。3人ともG2さんに演出してもらったことがあるけど、ひろしはフライパンの稽古の時にG2さんからたくさん宿題を出されたそうで、それをがんばってこなしていってたけど、結局G2さんが答えを教えちゃったものもあった、という話があったのが面白かった。今回もひろしは台詞が難しすぎたりホルンが吹けなすぎたり、課題だらけだったんだろうけど、私ならひろしを苦労させようという気になれないから、人によって違うもんだなぁと思いました。私なら断然まーくんさんをいじめたい。

思考の暴走からの世迷言

ここからは更に偏った妄想なので、完全に世迷言としてスルーしてもらいたいんですが…。

長谷川が手紙代筆をしているところに高校時代に好きだった彼女がやってくるシーン、彼女の姿は出てこないから長谷川の向かいに落ちるピンスポで表現される演出なんだけど、彼女のピンスポのすぐ隣が三池の立ち位置だから、長谷川は三池の方を向いて語りかけていて「えっ、まーくんさんが彼女役をやるの?!」って初見のときに勘違いしたのでした。そして今回も勘違いした。
まーくんさんが彼女役なのかも、と思って観ると、涙をこぼすのも彼女との共通点なんですよね。
でも、まーくんさんよりも彼女との共通点が多いのはイノが演じる長谷川で、重い病を抱えているところも、三池に似顔絵を描いてもらうところも、三池が「描きたい」という自らの衝動で似顔絵を描くところも、彼女と共通している。彼女は三池が傷つかないようにと嘘の理由を並べた手紙を三池に渡し、正直な気持ちを書いた手紙は直接渡せないまま亡くなる。三池と愛し合っていた時は記憶を失っていたというのは嘘で、本当に記憶を失っているのは長谷川。彼女が三池に宛てた手紙を書いたのは実は長谷川だけど、「記憶を無くす」という自分の要素を手紙に使ったのはどういう心境だったんだろう。物語の冒頭に長谷川が「あの手紙を渡せていたら未来は変わっていたかも」と言うけれど、長谷川が自分の気持ちを書く手紙は物語には登場しない。もしかして、長谷川は彼女の人生を生きているのではないだろうか。

同じ1人の女性をめぐる3人の関係だけど、由利は兄妹という間柄であるのに対し、イノまーは彼女と恋愛感情でつながっている。だから、終盤のキーになる彼女の手紙の内容については、身内でありながらも由利だけが部外者になってしまう。巻き込み巻き込まれる関係の長谷川と三池に対し、学者という立場もあるため、由利は観察者のポジションも兼ねている。
3人組は3=2+1と分かれてしまうことが往々にしてあって、長谷川が病に伏せているから、由利+三池シーンが体感的には多いんだけど、三角関係という意味では長谷川+彼女+三池なんだよね。

ラストシーン、長谷川は自分が誰なのかよくわからなくなっているけれど、三池に描いてもらった似顔絵を見て清々しい笑顔で「ぼくだよ」と言う。ぼくが長谷川なのかどうかはわからない。でも、ぼくがぼくであることに変わりはないし、三池には「本当のぼく」を描き出す能力がある。だから、長谷川は最後には救われてるんじゃないかな、と感じました。救われてないと、あんな笑顔は出ないから。

使われているトニ曲は歌詞もそのまんまだという話だったけど、最後のDahliaは「My Girl」が「My Friend」に変わっています。つまり、この曲で「いつでも君がいる」と歌う相手は女性に限らないということ。「ぼくだよ」と長谷川が笑った後にこの歌を聴いたから、「微笑み一つで悩みも晴れる」のはイノのことじゃないの?喧嘩をしてもすぐに仲直りってまーくんさんとの喧嘩の話なんじゃないの?!……いやいやそんな意味が込められてるわけないから!と思考の暴走を押しとどめました。ふぅーっ。

共通点の話つながりで、トニセン版ジャニフワがトニフワ(=トニセンの不惑舞台)だ、という謎の主張をしてきたことについて。まぁ、先ほどの思考の暴走と同じなんだけど、ジャニフワ見てる時にピコーンと思いついて、トニフワでトイレの扉を開けて爆音とともに閃光が注ぎ込んだところでピコーンピコーンと思い出したのでした。謎の手紙が届くのはアイランドだけど、それもおんなじじゃないですか!ヒロムスピリッツ!(暴論)
先日「ジャニーズ舞台」の定義について考える機会があって、感覚的にはヒロムの気配を感じるものがジャニーズ舞台だから、ヒロムが演出してなくてもたとえJr.が出なくなってもSHOCKも滝沢歌舞伎もジャニーズ舞台だし、ジャニーズしか出てなくてもTTTやイフオアはジャニーズ舞台ではないよね、という話をしたんです。でも、イフオアではジャニーズの他Gネタが沢山出るし、TTTはトニセン発信で作られたものだから、やっぱりジャニーズ舞台と呼んでもいい気がする。ジャニーズがやるコンサートはどんなに多岐にわたっていても「ジャニコン」なのと同じで、ジャニーズ発信の舞台にはどんな形であろうともヒロムスピリッツが継承されていておかしくないのでは?

「TTTを続けていきたいです」ってトニセンが言ってくれること、続くのが当たり前ではないということを体感してしまったジャニオタにとって、とても重い言葉だなと感じてしまいます。もしかしたら本人たちも感じているのかも。TTTもトニセンもV6も続きますようにと祈らずにいられません。