スリル・ミー 2021

horipro-stage.jp
初演から10年、熱狂的なファンを持つミュージカル「スリル・ミー」。
フットワーク軽く何でも観に行きたいと思いつつ、推しの出ていない舞台まではなかなか余裕がなくて手が回っていませんでしたが、
あまりの評判に「さすがに観てみるか」とチケットを初めて確保したのは2018年版の大阪公演。
ちなみに2018年版のサイトはこちら。
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成河×福士ペアも、松下×柿澤ペアも両方取れていたはず。
しかし観ることはできませんでした。インフルエンザに罹ってしまったので…。

2021年にもスリル・ミーの再演が決まり、今度こそは!とチケットを押さえましたが、既にコロナ禍が始まっていたため、見られる保証はないな、と心の準備はしていました。
東京公演はなんとか開幕しましたが、終盤で緊急事態宣言のため中断。群馬・愛知公演は行われたものの、大阪公演は全日程中止となりました。

やはり今回も観ることができなかった…スリル・ミー……

打ちひしがれているところに、事前収録映像のオンライン配信が発表されました!やった!!
時間の都合で、伝説の初演ペア・田代×新納回は観ることが出来ませんでしたが、
フレッシュ・松岡×山崎ペア、再演・成河×福士ペアの順で配信を観ました。

これまで配信で観た作品は他にもたくさんあるにもかかわらず、スリル・ミーの感想だけは書いておこうと思ったのは、恐らく観る人によってこの作品の受け止め方がかなり違うのであろうなと感じたからです。同じストーリーなのに、田代×新納ペアは「究極の愛」、成河×福士ペアは「資本主義の病」、松岡×山崎ペアは「若さゆえの暴走」と呼ばれています。同じ演出家が同じ作品を同時期に演出しているのに、不思議。
lp.p.pia.jp
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先にも書いたとおり、私は「松岡×山崎ペア」「成河×福士ペア」の順で観て、「田代×新納ペア」は観ていません。
役者でいえば、成河×福士ペアの演技が最も自分の好みに合うだろうなと思って観ましたが、結果として自分が最も腑に落ちたのは松岡×山崎ペアでした。そして、観ていない田代×新納ペアの「究極の愛」はどんなものなのか想像もつきません。

ここからは個人的な解釈です。
「彼」も「私」も、確かに知能は高かったのかもしれませんが、ニーチェの言うところの「超人」ではなかったのだと思います。「彼」は自分を「超人」と思いこんでいるだけだし、「私」はニーチェの超人思想自体に懐疑的。「彼」が「私」と連絡を絶っていた期間中に、「彼」はニーチェの超人思想にはまりました。再会した「彼」がニーチェに傾倒していたため、「私」も超人思想についての書籍を読んではいますが、特に傾倒しているわけではないと思います。ただ、ニーチェを知る前の高校時代から、窃盗や放火にスリルを得る行為は繰り返し行ってきたので、2人がやっていることはエスカレートしているだけで特に変わりません。「彼」と「私」は同性愛の関係にはありましたが、「私」は優秀な「彼」と特別な関係であることに執着しており、「彼」からの承認に依存している。対して「彼」は「私」のことも優秀であると認めつつも、「私」より自分の方が優れており、より超人的存在であると思い込んでおり、自分を承認してくれる「私」に依存している。恋愛感情ではなく、そのような共依存の関係であったと思います。
「彼」は弟を偏愛する父親を憎んでおり、父親のオフィスへの放火や、弟の殺害を企てます。それを「私」が制止するのは、犯罪の対象が「彼」に近すぎて「彼」が疑われることを警戒しているからかもしれないし、スリルではなくそのような私怨から犯罪を起こすことは美しくないと思っているのではないかと思っています。でも、そのとおりの言葉を用いて制止するわけではありません。「彼」が別の物をターゲットにするように「私」はそれとなく誘導します。この点において「私」は理性的であり、「彼」の方が感情的です。タイプライターに文字欠けがあるため特定されやすい点も「私」は事前に指摘していましたが、「彼」は聞く耳を持ちませんでした。
犯行現場に眼鏡を忘れたのが作為的なのかどうかはわかりません。私はわざとではないと思っています。ただ、「彼」に廃棄しておくよう指示された証拠品を「私」が捨てていなかったことから、「私」は本気で完全犯罪を成し遂げるつもりはなかったのでは、と思いました。自分も犯罪に加担しているものの、良心の呵責は少なからずあったのではないでしょうか。しかし、犯罪というスリルを介してしか「彼」を手に入れることができないため続けている、という風に思いました。だから、一緒に捕まれば「彼」とずっと一緒にいられる、という「私」の証言も正直なものだと思います。
彼らの犯罪が「若さゆえ」であるかと言うと、そうとも言えますし、そうとも限りません。彼らが関わる世界が狭く、お互い以外に承認欲求を満たせるものがなかったからストッパーが効かなかった、という面はあるかと思います。年齢に起因した問題ではありませんが、若い世代に起こりやすいとも言えます。
松岡×山崎ペアがしっくりきたのは、見た目の若さに言動が釣り合っていて、納得力があったんだと思います。成河×福士ペアは演技力でぶん殴るペア、田代×新納ペアは歌唱力でぶん殴るペアとも言われていて、演技力と歌唱力の面では敵わないかもしれないけれど、観る側に違和感を与えないというのは大きい。あと、やっぱり最初に観たというのも大きいかも。最初に観たものを親だと思う習性があるので。
私の解釈では同性愛はそれほど重要ではないので(「私」が「彼」に執着するのは同性愛に起因するところが大きいけれど)、「究極の愛」と言われる田代×新納ペアがどんな解釈なのか想像がつきません。それはすごく気になるので、観れる機会があるならぜひ観たいです。

でも、私が個人的に無理だったのは、殺人のターゲットに児童を選ぶところ。フィクションとしても生理的に無理です。スリル・ミーは実際にあった事件が題材となっており、被害者は16歳だったそうです。もしかすると「彼」が誘い出す様子から私が児童と思い込んだだけなのかもしれません。見ず知らずの児童に比べれば、顔見知りの16歳の方がマシ、と感じてしまうのは何故なのでしょう。とにかく、この1点においてのみ、この作品を積極的にリピートするのはしんどいな、と感じてしまいました。

今秋、同じ事件を題材にした作品「ネバー・ザ・シナー」が上演されることになりました。
辰巳雄大&林翔太が恋人役に、「ネバー・ザ・シナー」題材はローブとレオポルド事件(コメントあり) - ステージナタリー
スリル・ミーが10年間に渡って熱狂的な支持を受け続けている作品なので、アプローチが異なるとは言えどうしても比較されてしまうだろうし難しいだろうな、と感じてしまいます。ジャニーズのファンは観ていない人も多いだろうから大丈夫ですかね…。